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大垣ルーテル教会 礼拝説教

 聖書は神様から私たち人間への愛の手紙です。
 神様があなたに聖書を通して何を語られているのか、心静かに聞いてみませんか。
 



齋藤幸二 牧師


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説教要旨

※説教題または、マークをクリックすると礼拝説教を聞くことができます。
2015年3月22日        私たちを招く光
 「イザヤはイエスの栄光を見たので、このように言い、イエスについて語ったのである」
                           (ヨハネによる福音書 12章41節)
 イエスキリストがなさった多くのしるし(奇跡)を見ても人々はイエスを信じませんでした。信じないことの理由は、第一に神に間違ったものを求め、期待するからではないでしょうか。イスラエルの人々にとって、メシアとは自分たちを政治的に解放してくれる人でなければなりませんでした。自分の必要を満たしてくれる神を人は求めた結果、人々はキリストに失望し、キリストから離れ去るのです。
 しかし私たちが神に求めることは自分の必要に神を合わせることではなく、「神の御心は何か」を聞くことではないでしょうか。幸いとは、神の御心に従うあゆみの先にあるものなのです。私たちはナザレの人イエスの中に、また十字架の上のキリストの姿に、卑しめられた人を見るのではなく、神にただひとり従いぬいたキリスト、神の子の栄光と輝きを見なければならないのです。
 また、神からの誉れではなく、人からの誉れを求めている間はキリストを心の中で信じたとしてもそれをおおやけに告白する本当の信仰にはなりません。しかし、人からの栄誉は消えてゆくものですが、神からの栄光は消えることがありません。私たちは、イエスキリストの十字架を恥とはしません。イエスの内に、神の子の栄光を見、その愛の光に照らされて生きるものでありたいと思います。 
   
 
2015年3月8日

「イエスは言われた。この神殿を壊してみよ、三日で建て直して見せる」
(ヨハネ2:19

 過越祭のためにエルサレムに行かれたイエス様は、神殿の庭から羊や牛を追い出し、両替人のお金を撒き散らしました。異邦人たちが祈りを捧げる場所で商売が行われ、大切な礼拝を妨げていることをお怒りになったのです。
 しかし、そのような商売は必要なことでありました。巡礼者は遠くから牛や羊を連れてくることはできないので、どうしてもエルサレムで祭司の認可を受けた動物を買う必要がありましたし、献金のための貨幣もローマの通貨ではなく、特別な貨幣に換えなければならなかったからです。
 イエス様がここで「宮清め」をされたのは、人々の貪欲に対して怒られただけではなく、これまでの神殿礼拝そのものを終わらせ、新しい神礼拝をもたらそうとするものでした。
 神はイスラエルの人々に対し長い間、礼拝の場所をエルサレムの神殿と指定し、犠牲を献げることを命じました。しかし人間が行う礼拝は不完全なものであり、人の罪によって汚されてしまうのです。イエス・キリストこそ、私たちと聖なる神様を出会わせてくださるまことの神殿なのです。復活のキリストの体である教会で、キリストの血に清められ、イエス・キリストを通して、私たちはまことの礼拝をささげることができるのです

   

2015年2月22日     

 それから[霊]はイエス荒野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。(マルコ1:12,13 

洗礼を受け、父なる神から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と宣言されたイエスは、その神の霊によってサタンの試みにあうために荒野に追いやられました。誘惑の期間が40日間であったというのは、イスラエルの民が荒野で40日年間試練に会った期間と関係があると考えられています。

荒野に独りいるキリストは「野獣と一緒におられ」ました。旧約聖書は、メシアの時代になると人間と動物、また動物同士の間に平和が実現すると告げています。それがイザヤ書116節以下にある「メシア的平和」です。人間と神との間にある平和は、また人と人との間の平和、そして人と他の被造物との平和につながっているのです。最終的な平和はまだ先にあるとしても、神の子のいるところにはメシアの平和があるのです。

また荒野のイエス様に「天使たちが仕えていた」、とあります。苦難の時にも、逆境の時にもそこには神の平和があり、また天使たちの支えがあることをイエス様は荒野での経験を通して、またその生涯を通じて教えてくださったのです。神の子としてこの世に生きる私たちにも同じ平和と助けが約束されているのです。

 
   
 2015年2月8日  「共に主の前に」

「大勢の人が集まったので、戸口のあたりまですきまもないほどになった、イエスがみ言葉を語っておられると、四人の人が中風の人を運んできた。」 
                             
(マルコ22,3

 中風の人を連れてきた四人の人は、イエス様が必ず友人の病を癒してくれると信じていました。ですから動けない病人を床に乗せて運んできたのです。彼らは大勢の人に妨げられてイエス様に近づけませんでしたが、あきらめませんでした。イエス様が話しておられた家の屋根をはがし、病人をそこにつり下ろしました。イエスは「彼らの信仰を見て」、中風の人に「あなたの罪は赦される」と宣言されたのです。
 「彼らの信仰」とは、イエス・キリストには病をいやす力がある、と信じたこと、そしてキリストは必ず求める者に応えてくださる方であることを信じたのです。そしてそのために決してあきらめようとしませんでした。
 この四人の姿は、一人の罪人をイエス様のもとに導いてゆく聖徒たちのとりなしの祈りと奉仕を示しています。宣教の働きの第一歩は、まずこの四人のように、心を合わせてその人のために祈り、また共に働くことから始まるのです。「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:19,20)と主が教えられたとおりです。

   
2015年1月25日  「説教題」 
人々は皆驚いて、論じ合った。「これは一体どういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、そのいうことを聞く。」                                   (マルコ1:27 

 イエス・キリストはユダヤの人々が集う会堂で教え始められました。普通のラビ(教師)は「偉大なラビであるだれそれはこう言っている」と、先人の教えによって自分の言葉を権威づけていました。しかしイエス様はそのように語らずに「わたしはこう言う」、と自分自身の権威によって教えました。そのように語ることができるのは本当に権威がある方、神にしかできないことだと考えられていたのです。 イエス様の語り方が権威ある者のようであっただけではありません。その言葉には力《権威》がありました。イエス様の言葉によって、人々の力では追い出すことのできなかった悪霊も、取り憑いていた人から出て行ったのです。イエス様の言葉は病む人を癒し、目の見えない人の目を開く力があったのです。
 私たちはこのイエスの権威ある言葉、そのお約束によって生かされています。私たちの魂に襲いかかり、とりこにしようとする罪の力に、私たちは自分の力では勝つことも自由になることもできません。自分では自由であり、正しいと思っていても、いつしか罪の虜になってしまうのです。私たちを自由にするのは、今私たちに語りかけられているキリストの言葉なのです。このイエス様のみ言葉を受けながら、今年も信仰の道を歩んでゆきたいと思います

   

2015年1月11日 「説教題」

人々は皆驚いて、論じ合った。「これは一体どういうことな
のだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、そのいうことを聞く。」(マルコ1:27 

 イエス・キリストはユダヤの人々が集う会堂で教え始められました。普通のラビ(教師)は「偉大なラビであるだれそれはこう言っている」と、先人の教えによって自分の言葉を権威づけていました。しかしイエス様はそのように語らずに「わたしはこう言う」、と自分自身の権威によって教えました。そのように語ることができるのは本当に権威がある方、神にしかできないことだと考えられていたのです。
 イエス様の語り方が権威ある者のようであっただけではありません。その言葉には力《権威》がありました。イエス様の言葉によって、人々の力では追い出すことのできなかった悪霊も、取り憑いていた人から出て行ったのです。イエス様の言葉は病む人を癒し、目の見えない人の目を開く力があったのです。
 私たちはこのイエスの権威ある言葉、そのお約束によって生かされています。私たちの魂に襲いかかり、とりこにしようとする罪の力に、私たちは自分の力では勝つことも自由になることもできません。自分では自由であり、正しいと思っていても、いつしか罪の虜になってしまうのです。私たちを自由にするのは、今私たちに語りかけられているキリストの言葉なのです。このイエス様のみ言葉を受けながら、今年も信仰の道を歩んでゆきたいと思います

   


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